大阪借景1.

  • 090423_009
    デジカメは便利。消耗するのはとりあえず体力と電池だけで、フィルムは要らないしDPEに出す必要もない。仕上がりはその場で確認出来るからブレテいたりフレームアウトしていたら即削除出来る。不便なのはタイムラグがあることかな。瞬間をピンで留めることが難しい。これは一眼レフに適わない、と思っていたら一眼レフ型のデジカメまで登場してしまった。あっちゃ。

人物1.

  • 090504_030
    私はもっぱら看板とか川とか町並みとか専門で普段人間はあまり撮らない人だけど、たまに狂ったように人物を撮影します。あっそ、うっふっふ。
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文化・芸術

2009年8月 6日 (木)

橋下知事インタヴュー他。

 橋下大阪府知事が先日某テレ朝のインタヴューに答えて「悪徳政治家」という言葉を使っていたのに触発されて、ああ懐かしい言葉だと故埴谷雄高の長編小説『死霊(←作者はこれを《しりょう》ではなく《しれい》と読めと言っている)』のことを思い出した。これは「sad,bad,glad,mad」の四兄弟がそれぞれ各章で繰り出す「心情吐露」が中核になっている観念小説で、ここにサッドは主人公三輪与志、バッドはその兄で病床に臥す三輪高志、グラッドは24時間不眠で処狭しとあちこち駆けずり回る首猛夫、マッドは黙狂・矢場徹吾という構成であるが、彼ら四兄弟の父親が「悪徳政治家」と呼ばれた「三輪宏志」なのである。ここでふと私が思うのは「悪徳政治家」の反意語は何だろうかということである。「善良政治家」かな?そんな言葉あんまり使わないというか、聞かないよな。笑。そもそも「善良なる政治家」の存在なんて我々一般人が(はあ?)安直に信じているとは思われないし、「政治の言葉」というか、彼ら自称政治家らが日々臆面も無く繰り出す歯の浮くような「美辞麗句」というものに、とてもじゃないけど「厚き信頼」など置いてはいないのではないだろうか。第一彼らは常に自らの政策を「自画自賛」し、翻っては政敵の政策は罵倒しまくって、結局は「俺だけが正しくお前はアホだ」と自らの正当性を声高に叫び続けるのが常態であるから、何が下品と言ってこんな下品な種族はいない。何が悲しくて裏で何をやっているか知れないあんな人たちに自分と自分の親兄弟や祖国の将来等々を託さなければならないのか甚だ疑問である。更に言ってしまえば、とりわけ「政・財・官の癒着構造にどっぷり浸かり切りの自民党なんかもう要らねえよ。おとつい来やがれ」ということなのである。これは「二大政党制」などという「高尚な」議論以前の前近代的な問題であって、つまり彼らは私の美学(?)に全くそぐわない人たちなのである。ぁそ。そういうわけで、先日の火曜日はトビタの洋画を見て来たので(途中涼しくてよく寝てしまっていたが)これも何か書けたら書きたいという今日この頃である。あちゃ。

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 そこで橋下知事がどういうことを言っていたかであるが、私の拙い走り書きのランダムなメモによれば:

*「今のままの日本に住みたくない。こんな日本を子孫に伝えたくない」というのが儲かるタレント活動を捨てて政界に出たそもそもの動機付けとしてある。待っていても誰も変えてくれない。
*(なぜ自分が国政へ行かないかと言えば)仮に大臣になったとして大臣は会社の部長と同じネズミ色で個人では何も出来ない。
*地方分権と言っても全国の知事・市長らは「権限をよこせ」と言っているだけだからこれでは到底国際競争には勝てない。
*関西圏のGDPは合わせればオランダ一国に匹敵するというのにこの惨状はいったい何だ!?これも奴隷制度の故だ。
*国会議員らがやれ「盆踊り・夏祭り」に何回行っただの「暑中見舞」を何通出しただの「後援会活動」がどうしただのに血道を上げてあくせくしているようではこの国は滅びる。
*もはやプログラムを変えても駄目だ。OSを変え、システムそのものを変えなければ駄目だ。

・・とまあ、こんな「憂国の志士」的な論調から飛び出して来る言葉が、概要で書いた「悪徳政治家」なのである。
「政治家は結果が全てだから結果オーライであって言葉は要らず、果実を得るためなら悪魔に魂を売ってもいい」とマヌーバOK、何でも有りの態度である。聞き手はこれを評して「橋下は徹底したリアリストである」と締め括っていたが、彼はそもそも「吹きまくる人」なのでこれら全てが即彼の本音だということにはならないだろう。
 あと私から一言言っておくとしたら、とりあえずはいつもの台詞だが「目的は手段を浄化しない」ということくらいだろうか。w

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 今回の洋画3本は全て、至る処に肉片が飛び散り虐殺が虐殺を呼ぶ残虐なシーンで溢れ返っていて、ときに「総合芸術」とも呼ばれる映画の守備範囲も広くなったものであるとため息の一つもつきながら(?)私はよく寝入っていた。ぁそ。

「物語への逃避」と言ったのは蓮実重彦だったろうか、我々の日々の生活なんてそんなに血湧き肉踊るような事件の連続ではあろう筈もないから、吉本も言う如く(かどうか)「シャツを着たり野道を歩いたりすることに喜びを見出せずに何が人生か」ということになるのだろうが、まあ我々の日々の現実が無味乾燥でクソ面白くもない時間の連続だったとすれば、それはあーた、総じて我々自身がとりもなおさずゲージュツなり映画なりに束の間の憩いと安堵とちょっぴりのスリルを求めずにはおれない哀しくもアンニュイな生き物だということなのであるってか、ぁそ。

 いや私はつい口が滑って今「我々の現実」なんてことを言ってしまったが、そんな共通項で気安く無前提に括れるものが「現実に」存在するものかどうか。
 メディアでも文化・芸術でも科学・学問でもいいが、我々は何かと言えばすぐ「単純化・図式化・類例化」の統計学的仕分け・分類に頼りがちであるが、我々個々人にあるのは当然ながらあくまで個別・具体の一回こっきりの生と死なのである。

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1.ランボー最後の戦場(日本では2008年5月公開)

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2.雷神 RAIJIN.

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3.ダークナイト

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2583通のメール便未配達=配達員が自宅に放置-ヤマト運輸
8月5日19時0分配信 時事通信

 ヤマト運輸(東京)は5日、神戸市兵庫区の事業所の委託配達員(43)が2583通のメール便を配達せず、自宅に放置していたと発表した。同社は対象の顧客に事実報告とおわびを行う一方、この配達員との契約を解除した。同社では、同様のメール便未配達が2004年10月以降、数回発覚。最近では昨年12 月に岐阜県大垣市で明らかになった。
 今回のメール便は07年12月から今年7月の間に発送されたもので、大半が企業からのカタログやダイレクトメールだが、個人客からのものも一部含まれていた。発覚は、届け先である個人からの問い合わせがきっかけだった。配達員は動機について、「メール便が多くて対応しきれなかった。業務にも嫌気がさした」などと話しているという。 

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 今しがた何気なく捻った某国営放送の「クローズアップ現代」で、現在千葉県旭市で開催されている有名漫画家たちの漫画展のことを知った。私も18切符でも買って見に行きたくなった。w ↓ ↓

cf.私の八月十五日の会

「私の八月十五日展」
 ・開催期間  7月22日(水)~8月16日(日)※月曜休館
 ・開場時間  平日:午前9時~午後6時30分(受付時間午後5時30分まで)
        土日:午前9時~午後4時30分(受付時間午後3時30分まで)
         ※8月9日(日)は午後6時まで開場
 ・会  場  千葉県立東部図書館 3階特設会場
         千葉県旭市ハの349

 「私の八月十五日展開催記念特別講演会」
 ・演  題  「少年たちの記憶」
 ・日  時  8月9日(日)
 ・時  間  午後1時開場 午後2時開演
 ・会  場  千葉県東総文化会館 大ホール
         千葉県旭市ハの666
 ・講  師  「八月十五日の会」代表 森田拳次さん ちばてつやさん 
         聞き手 椎名 保さん
 ・入場無料  定員900名

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2009年4月18日 (土)

東京志向。

 *例えば「ださいたま」と「ちばらぎ」についてはどうか。
 どちらも私が東京にいた頃一部で公然と隠微な笑いとともに使われていた。「ださいたま」は「ださい」と「埼玉」を組み合わせた造語、「ちばらぎ」は「千葉」と「茨城」とが合体された造語である。
 「ださいたま」に関しては私は当の埼玉県民が「タモリの野郎アタマに来るなあ!」とかなり本気で怒っているのを耳にしたことがあるので、この言葉を「笑っていいとも!」等で広めた張本人はタモリかも知れない。

 タモリはそれ以前にも「名古屋駅に降りるとミャアミャア鳴く声がする」とか「名古屋の人間はエビフリャアが大好物だ」とか口繁く言って笑いをとったりしていたが、昔中村某というピアニストがラジオで「日本は東京にしか文化がない国だから」と公言して顰蹙を買ったことにも端的に現れているように、彼が皮肉ったのはともすれば何でもかんでも「東京一極集中」してしまう「日本の文化・風俗」総体の歪みなのである。

 東京から大阪・神戸に至るいわゆる「太平洋ベルト地帯」に人口も文化も産業もその基幹部分の殆どが集中しているこの国にあって、神奈川県を除く関東地方の埼玉、千葉、茨城、群馬、栃木の各県は東京の近隣・外郭ではあっても東京そのものではなく、「明日は東京になりたい」と切望しても「永遠に東京にはなれない」という微妙な位置関係にある。ときに名古屋までもが「巨大な田舎」と呼ばれるが、その伝で言えば大阪だってまさに「一ローカル都市」の域を出るものではなく、関西全域の地盤沈下は覆い難いのである。

 昔「ださいたま」だとか「ちばらぎ」だとかを事あるごとに吹聴して陰鬱な笑いに打ち興じていたのは上京して間もない地方出身者たちの野合体なのである。彼らは愚かにも東京に出て来たこと自体が自慢で自慢でしょうがなかったのである。事情は現在も大差はなく、メディア関係者であっても芸人であっても、ときにこの「東京志向」「東京崇拝」の傾向を示して恥じず、彼らに限らず我々一億二千万の国民は概ね「東京教」の狂信者であって皆東京を意識し東京の方を向いて日々を送っているのである。まさに「権威は一つあればいい」である。

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