大阪借景1.

  • 090423_009
    デジカメは便利。消耗するのはとりあえず体力と電池だけで、フィルムは要らないしDPEに出す必要もない。仕上がりはその場で確認出来るからブレテいたりフレームアウトしていたら即削除出来る。不便なのはタイムラグがあることかな。瞬間をピンで留めることが難しい。これは一眼レフに適わない、と思っていたら一眼レフ型のデジカメまで登場してしまった。あっちゃ。

人物1.

  • 090504_030
    私はもっぱら看板とか川とか町並みとか専門で普段人間はあまり撮らない人だけど、たまに狂ったように人物を撮影します。あっそ、うっふっふ。
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経済・政治・国際

2009年7月20日 (月)

「マネー(資本)主義」寸考。

 『マネー資本主義』という奥歯にモノが挟まったようなわけわからないタイトルのNHK特集全5回が今夜終わったが「で、どうなんだ!?」(小田実)というと大事なことは何も言っていないという印象である。①いわゆる「金融資本主義」なるものが資本主義の究極の姿であるのかどうか。②資本主義の過去と現在に対する根本的な批判とそれに対して資本主義を擁護する側からの反・批判はどこでどう噛合っているのか。③世界経済の行く末、なかんずく今や「ドル本位制」とも言うべき現在の世界の基軸通貨=ドルに未来はあるのか・・等々切り込むべき課題は山ほどあるが、NHKはその周辺を当たらず触らず徘徊してお茶を濁しただけである。スポンサーも持たないNHKはいったい誰に何を遠慮しているのかと言えば、その視線の先にあるのは自公政権と霞ヶ関だけだと言っていいのである。「政権交代」はかかるメディア内部の風通しも俄然良くする筈である。で、今夜のゲストたちは「遠慮がちに」ではあったが少しだけいいことを示唆していた。「各国マネーが(かつての肉弾戦の)代理戦争をしている」だとか「公益資本主義の視点が必要だ」とか、或いは「マネー投機」ではなく「(農業等)地場産業への地道な投資が必要だ」とかである。最後の「地場産業育成」について言うなら、これは単に日本国内においてのみ要請されていることではなく、全世界規模で「もの作り支援」が緊急に要請されていることは自明であるが、現実には「モノを作っていたんでは食って行けない(!)」民が世界に溢れている上、「モノを右から左へ動かすだけ」更には「何も作らず動かさず単にデータを打ちかえるだけの人間が瞬時にして膨大な利潤を獲得してしまう」体制が世界を覆い尽くしているのであり、これこそが「金が全ての世の中」のぶっちゃけた姿なのである。この「ウォール街の投機合戦」に学問的権威付けを与えたのがいわゆる「金融工学」なるもので、複雑な数式を駆使してやっていることは、要するに確率論に基づく「投機の合理化」であり「リスクの可能的分散化」なのであって、元よりこんなものが学問の名に値するものかどうか、私には甚だ疑問である。だいたいが金を貸して利鞘を稼ぐなんてことが経済の中心になっていい筈もなく、人間「モノを作ってナンボ」なのである。

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cf.金融工学とは何か?
cf.金融工学ウィキペディア
cf.金融工学入門

2009年5月31日 (日)

北の核。

 私は何の根拠もなく推測するのだが、アメリカは北の核ミサイルなど微塵も恐れていないと思うのである。あんなものは現況、必要とあればいつでも迅速かつ的確・完璧に叩き潰せると思っている。恐れているとしたら叩いた「その後」の肉弾戦である。「窮鼠猫を咬む」式に破れかぶれで万一これが勃発したら韓・日は大混乱の戦争状態に陥り、日本は半壊状態となるかも知れない。
 が、私はそんな可能性はほぼ100%あり得ないと思う。北の軍部もそれほど愚かではない。彼らには彼らの権力闘争に絡んだ緻密な(?)計算が働いているのである。
 北のいわゆる「綱渡り外交」などそれが計算された政治パフォーマンスである以上、単独では何ら恐るるに足りないのである。アメリカが危惧しているのは北の戦略が対米強硬派のイランの戦略や政情不安のパキスタンの情勢等と緊密に絡みつく事態である。とは言っても、アメリカという国はこれまで世界各地で戦乱を巻き起こして食繋ぎ、「世界の憲兵」として君臨し延命を図って来た国であるから、大統領がオバマに代わったからと言ってこの基本スタンスが急変する筈もないだろう。アメリカは「緊張前提」の国家なのである。「適度な緊張」が欲しいという点では北も日韓も、或いは中国・ロシアも同様である。
 人類はいまだかって「戦争・殺し合い」のない時代を体験したことがない。「平和」とは「間氷河期」のように、「戦争と戦争の合間の束の間の平穏」、もしくは「戦争の準備期間」でしかなかった。現在の世界情勢の基本は「パクス・アメリカーナ」に相違なく、これまで何度となく「もう駄目だ」と言われ続けて来たアメリカ経済とそれに根拠付けられた「世界支配」が、果たして今後どういう変遷を辿るかということである。

2009年5月31日 02時30分
<アフガン空爆>「オバマの戦争」正念場…民間人被害拡大も
 【バグラム米空軍基地(アフガニスタン)大治朋子】オバマ政権が6月から、アフガニスタンへの米軍増派を本格化させる。米空軍や国際治安支援部隊(ISAF)による空爆は今年に入り、既に過去最多のペースで増加。今後増派で戦闘が激化すれば、地上軍支援のための空爆はさらに増えるとみられ、誤爆などによる民間人被害の拡大も懸念される。アフガンでの「オバマの戦争」は、正念場を迎える。

 「過去の戦争に比べれば、空爆は極めて少数に限定されている」。米空軍は毎日新聞の取材に、そう強調した。米同時多発テロ後、米空軍がアフガンに投下した爆弾は計1万4000トン余り。イラクは約1万9000トンで、670万トンを記録したベトナム戦争などに比べればごくわずかだ、という趣旨だ。

 ベトナム戦争時代、米軍は多数の子爆弾が広範囲に飛散するクラスター爆弾などを多用。敵の存在が疑われる一帯を広範囲に攻撃した。しかし湾岸戦争(91年)で米空軍は精密誘導型の「スマート爆弾」を開発。ピンポイント攻撃で、「民間人被害を最小に食い止める戦争」とアピールした。

 だが対テロ戦争では、武装勢力が市民が多く住む地域に紛れ込んだり、反米感情から戦闘に加わる市民が絶えず、精密誘導弾を使用しても付近住民らの被害が避けられない状況となっている。

 米軍が空爆に依存する背景には、戦闘の長期化に伴う駐留軍の兵員不足もある。オバマ大統領は昨年の大統領選で、「(米軍などがアフガンの)村々を空襲し、市民を殺害するという大きな問題を引き起こしている」と指摘。「解決には十分な兵員が必要だ」と増派の必要性を強調した。ゲーツ米国防長官も今年4月、アフガンのテレビに「もっと駐留軍が増えれば、空爆の必要性は少なくなる」と語った。

 米軍の増派により、今夏は戦闘のさらなる激化が予想されている。今月半ばに訪米したカルザイ・アフガン大統領は、オバマ大統領に民間人被害を伴う空爆の中止を改めて要請した。だがジョーンズ米大統領補佐官は「空爆継続」の必要性を強調した。民間人被害や米兵死者が急増し、増派終了後もアフガンに治安回復の兆しが見られなければ、対米批判が高まるのは必至とみられる。

2009年5月17日 (日)

鳩山民主党。

 今年の葵祭は迷った末(←最近いつも迷っている。ぁそ。)午後の部だけ少し見に行った。昼過ぎには下鴨神社に着いていたが、走馬の儀は見ないで北大路へ先回りした。去年は『一本松』という下鴨本通りのバス停辺りで行列を見ていて北大路に出るのに大変苦労したからである。上加茂神社には充分行く余裕があったが、今回は北大路大橋の河原までで、去年も行ったことだし行列の追跡は諦めた。代わりに河原の木陰で涼しい風を受けながら茫とした時間を過ごせただけでも随分贅沢なことだったと思っている。加茂川の上空は鳶がいつも舞っている。その写真を撮りたくて構えてもなかなかうまいこと撮らせてくれない。あと、京都はガイジンが多い。多過ぎてカメラを向ける気が削がれる。ぁそ。ちょっと京都へ行き過ぎだけど、東京は遠いし、近場でも神戸とかには行く気も起きないので・・。

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岡田が代表なら過去の二の舞い 『5/15日刊ゲンダイ』

民主党の代表選は鳩山由紀夫幹事長の圧勝かと思いきや、怪しい雲行きになっている。大マスコミが「世論は岡田克也副代表に期待」などと書くからだ。民主党は以前、岡田氏を代表に担いで、選挙に惨敗した苦い経験がある。大マスコミが煽るように、今回また岡田氏が代表になれば、過去の二の舞いになるのは必至だ。政権交代が期待される今、民主党に必要なのは過去3年間の小沢路線の継承ではないか。岡田氏を新代表にしたいのは、政財官主導の既得権益にあぐらをかきたい自公腐敗政権のよこしまな思惑であり、大マスコミはそれに乗せられているだけだ。

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 乗せられているんじゃなくて、陰で結託しているんだろう。笑。少なくともそういう悪質な部分があるのは確かである。
 私も岡田さんを応援したい気持はあったが、それは四年前小泉ポチの騙し討ちに合った岡田・鉄仮面にリベンジさせたいからである。でもそんなこと言っていては選挙に勝てないのも事実だろう。「岡田は選挙に負け、小沢は参院選に勝った」これが厳然たる事実である。
 鳩山さんは「良血のお人好し」という感じで、数年前には自民党に妥協的な姿勢を隠そうともしなかったから、私はあまり良い印象は持っていない。だが本人が今回は『やる』と言っているのだからやって貰うしかないだろう。
 検察=国家権力とメディアは結託して小沢=蛇の頭を潰したのである。この国は政財官の密着・相互依存構造に加えて「創価学会」という不気味な宗教団体までもがしっかりと組み込まれてこの国の上部構造を形作っているという、先進国が聞いて呆れる前近代の未開社会である。わが国はその程度の国なのだ。

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民主新代表に鳩山氏=「岡田幹事長」で調整、小沢氏も要職-政権交代へ先頭
jiji.com

 民主党は16日午後、都内のホテルで両院議員総会を開いて代表選を行い、党所属国会議員による投票の結果、前幹事長の鳩山由紀夫氏(62)が124票を獲得して95票の岡田克也副代表(55)を29票差で破り、新代表に選出された。任期は、小沢一郎前代表の残任期間の2010年9月まで。鳩山氏は直ちに執行部人事に着手し、幹事長に岡田氏を起用する方向で調整に入った。
 民主党は、政権交代が懸かった次期衆院選に鳩山氏の下で臨むことになる。鳩山氏は、小沢氏をめぐる西松建設の違法献金事件で打撃を受けた党勢の回復を迫られる。
 鳩山氏は両院議員総会でのあいさつで「政権交代を果たし、官僚主導の政治を打破するため、先頭を切って走ることを誓う」と決意を表明。就任後の記者会見では「ノーサイドだ」と挙党態勢の確立に努める方針を強調した。
 その上で、小沢、岡田両氏について「しっかりしたポストに就いていただきたい」と表明。新執行部人事は小幅にとどめる考えを示した。岡田氏に関しては、この後のNHK番組で「当然、(執行部の)ど真ん中に入ってもらいたい」と述べ、幹事長起用を示唆した。
 ただ、岡田氏に近い中堅議員は16日夜、「権限のない幹事長なら岡田氏は受けない」と語った。党内では、選挙対策の要職に小沢氏の起用が取りざたされていることに、岡田氏が抵抗を示しているとの見方が出ており、人事をめぐる調整が難航する可能性もある。(2009/05/17-01:45)

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2009年3月29日 (日)

新聞。

新聞業界の苦悩 自らの首を絞める「押し紙」問題

3月29日13時0分配信 MONEYzine


新聞業界の苦悩 自らの首を絞める「押し紙」問題

画像

 日本は世界でも「新聞大国」として知られている。国内の全国紙の発行部数は読売新聞の1002万部をトップに、朝日新聞803万部、毎日新聞385万部 と続く。この発行部数は世界の新聞紙と比較しても郡を抜いた数字で世界トップ3を日本勢が独占している。海外では米国で首位の「USAトゥデイ」が227 万部、英国の「ザ・サン」でも307万部程度だ。

 しかし新聞業界がこれまで築いてきた強固な地盤も近年では崩れつつあるのも事実。年々読者の新聞離れが進み、広告費は縮小傾向にあり、大手新聞社は軒並み業績不振に苦しんでいるのだ。そのような中、限界に近づいているのが「押し紙」という業界の悪しき習慣だ。

 一般にはあまり知られていないが、「押し紙」とは新聞社が新聞配達業務などを請け負う販売店に販売した新聞のうち、購読者に届けられなかった売れ残りを 指す。印刷所で刷られた新聞はすべてがユーザーに行き渡るのではなく、廃棄される部数がかなりの割合で存在するのだ。そのため実売部数と公称部数はかなり かけ離れているのが実態で、その数は新聞社によって異なるものの、2割とも3割とも言われており、場合によっては「5割に達するケースもある」(業界関係 者)という。

 なぜ新聞社はユーザーの手元に届かず廃棄されてしまう無駄な部数を刷るのだろうか。主な理由としては2つある。1つが新聞社の売り上げを増やすため。そしてもう1つが広告料を高く取るためだ。

 まず1つ目だが、新聞社は販売店契約を結んだ時点から販売店よりも有利な立場にあるため、過大なノルマを販売店に課すことがある。このノルマのうち達成 できない分は、当然大量の売れ残りとして発生してしまうが、販売店は廃棄分を含んだ代金を新聞社に支払わなければならない。新聞社は売れようが売れまい が、販売店に押し付けてしまえば売り上げが計上されるが、「押し紙」の数が多くなればなるほど、販売店の経営はきびしくなってしまう。実際に元販売店と新 聞社との間で「押し紙」問題をめぐって訴訟問題にまで発展している例もある。

 しかし新聞社は売り上げもさることながら、広告収入を維持するために発行部数を落とすことはできない。これが2つ目の理由だ。新聞の紙面にはたくさんの 企業広告などが掲載されているが、新聞社は広告クライアントに対して公称部数をもとに広告枠を販売している。もし「押し紙」分を除いた実売部数が明らかに なれば広告収入は大幅に減少する上に、「これまで水増し発行部数分の広告料を摂られていた」とこれまた訴訟問題に発展するリスクも出てきてしまう。

 これまで新聞業界で公然の秘密となっていた「押し紙」問題だが、これ以上続けた場合には販売店から、止めた場合も広告クライアントからそれぞれ訴訟問題 に発展する可能性がある。ゆがんだシステムではあるが、長い間機能してきただけに、「押し紙」を廃止することは容易ではなく、業界は身動きができない状態 に陥っている。

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*新聞各社が系列の販売店に実績を遥かに超える量の新聞を日々押し付ける第一の理由は、上記記事の二番目にある「広告収入」への影響からである。新聞社はスポンサーからの広告収入が主だった収入源であり、広告料金を算出する根拠を公称の発行部数に置いているため、部数が減少してはならないという至上命題がまず先にあるのである。同様に各販売店の旨みのある収入源はチラシ(折込広告の手数料)であって、個々の読者から徴収する新聞購読料などは印刷・配送・戸別配達・拡張員への報酬等々のための諸経費で簡単に吹っ飛んでしまう額でしかないのである。

 日本のいわゆる「全国紙」という概念はアメリカにはなく、WP紙もNYtimes紙もみんな言わば「一地方紙」に過ぎず、「系列」の新聞販売店というものもない。
 映画やドラマでよく見掛けるように、新聞配達員は「全部丸めて芝生にポン!」である。過疎地の新聞店のように系列を廃止して一軒でその地区の宅配を統括すれば確かに流通は合理化されるが、代わりに雇用は縮小するしかない。ことは新聞に限らず、問屋や中間業者等全ての商品の流通を簡素化すれば商品は安くなるが、今度は人間が余ってしまうというのが日本的事情である。

 古新聞には古紙と残紙がある。両方とも別々の問屋があって回収している。古紙は普段我々が目にする「古新聞・雑誌」の回収業者である。一度でも人手に触れた新聞は「ふるしんぶん」であるが、各販売店には急送トラックで配送はされたものの「押し紙」のため一度も梱包を解かれることのなかった新聞が多量に残る。ビニールで包まれ、バンドで結束されたままの新聞の束である。これを残った紙=「残紙」というが、ご心配には及ばない。笑。これにはこのための専門業者がいて、そのまま裁断されてパルプの原料に投入されてしまうことはない。工業製品や農産物の緩衝材として残紙は広く使われているのである。

 ところで新聞と言えば「景品」と「拡張員」である。「景品」というシステムを最初に始めたのは読売である。右手に契約書、左手にフライパン(?)を持って戸別訪問に押しかけ、結局はこれで全国制覇を成し遂げたわけである。それまでは『朝日』の天下であり、更にその前は『毎日』の天下だった。
 フライパンとかちょっとした家電とかの「景品」(拡張員たちはこれを拡大のための材料即ち「拡材」と呼ぶ)は、不具合品とまでは言わないまでもかなり胡散臭い代物だったが、新聞を契約して購読する習慣のなかった人たちは「判子をついてプレゼントを貰えるなら♪」とこれに飛びついた。仕入には当初カッパ橋のB級品とかをまとめ買いしていたが、そのうち「拡材」専門に造る町工場も誕生した。

 こうして全国紙vs地元紙、更には全国紙同士の「拡張戦争」が始まる。私は昔「実録・新聞拡張戦争」とかいう東映ヤクザ映画を見たことがある。w

 読者獲得のため、新聞各社は競って①無代紙の提供と②景品のプレゼントを繰返した。過当競争の「自粛」は何回も何十回も共同で申し合わせたが守られた試しはない。無代紙で言えば「一年契約してくれればその前の半年間は無料」とかそのバリエーションは様々で、景品で言えば自転車・電子レンジなどは序の口で、1万円の地元デパート商品券とかこちらも多種多様である。これにかかる費用は新聞社と各販売店との折半ということらしく、販売店主はと言うと、これは必ずしも永代その店をやって行こうという人ばかりではなく、その地区の読者数を極限まで増やしたところで経営権を他に売り飛ばして自分はまた別の店に手を付けていくという人間も珍しくない。

 ところでお得意さんというか常連客に対してこれ程冷淡な業界は他にないのではないか。いわゆる「釣った魚に餌は要らない」という奴で、何年も何十年も自分のところの新聞を購読してくれた顧客にはせいぜいゴミ袋1パック、逆に新しい読者には無代紙や高価なプレゼントの進呈である。
 ここに高い代償を支払ってでも欲しいのはあくまで(現在)他紙を購読している読者であって、自分の新聞の読者は(好きで読んでいるんだから!)放っておいてもいつまでも読み続けるだろうという思い上がりがある。

「拡張戦争」は多くの「交代読者」を生み出した。
「契約がXX年XX月まである」というと「その先をくれ」と拡張員は言う。先を契約すると別の新聞の拡張員が来て「更にそのまた先をくれ」と言ってプレゼントを置いて行くという、その繰り返しである。「交代読者」は言わば拡張員らの「飯の種」である。彼らの仕事は「ひっくり返す」ことだからである。

 ところで最後に契約の種類だけれど:

①契約期限の切れた読者の「継続」契約は「シバリ」と言って一番価値が低い。自紙の継続だから当然という態度である。通常これは店員の仕事である。
②以前自紙を購読していた読者を復活させることを「起こし」と言って、これは店によっては③の「シンカン」同様の価値を認める。
③新しい読者の契約を取ることを「シンカンを叩く」と言い、これが一番価値が高く、引越しして来た家庭の「シンカン即入」の契約をとるとプレミアがついて1万円くらいは楽勝か。
 即入とは翌朝から直ちに配達開始するという意味。
 ところで「シンカン」だが、これは他所から越して来た従来からの「固定」読者だろうと新入学の学生さんだろうと一応区別はない。

 そう、販売店は通常店の顧客リストを「固定読者」と「契約読者」とに大別しているのである。これもセンキョの「浮動票」や「固定票」同様失礼な話には違いない。w

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cf.新聞拡張員ゲンさんの嘆きは現役(?)新聞拡張員のblogである。笑。ちょっと膨大過ぎて全部を読む気は起きなかったが「拡張の歴史」なんかは話半分としてもけっこう面白かった。

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2009年3月28日 (土)

百年目。

 ちょっと考えればわかることだが、今連日メディアで気安く使われている流行りのフレーズ=「百年に一度の経済危機」という言葉は、単に「稀なる事態」を強調する比喩としては不正確で無批判であてずっぽうでとんちんかんな述語である。こんなところからもメディアのいい加減なアバウトさが浮彫りになって来る。
 今から「百年前」と言ったら第一次世界大戦前夜の二十世紀初頭であるから、世界の30ヶ国が参加した「Great War」(←第二次大戦が勃発する以前はこう呼ばれた)の前段階として当然世界的経済危機はあったろうが、では間に挟まれた第二次世界大戦の前後には何の危機も混乱もなかったのかと言えば、まったくそんなことはあり得ないわけで、今回の世界的不況を形容するにはむしろ「前代未聞の」とか「未曾有の」とか「人類史上初めての」とかいった言葉の方が遥かに理に適っているのである。

 それで「百年に一度」と言うからにはもう百年遡った1800年頃はどうだったかと言えば、日本では江戸時代中後期、ヨーロッパでは「大航海時代」(14c-17c)の後を受けたイギリス「産業革命」の真っ只中にあたり、これは「経済危機」どころか逆に「経済大膨張」の端緒の時代である。「どこが百年に一度か?」というわけである。こういう「蒙昧主義」そのもののいい加減な「述語」を使って、いったいどんなまともな議論が出来るか私には甚だ疑問である。・・というわけで、今日はその辺を少し考えてみる。ぁそ。

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続・「100年に一度の危機」って?

 ↑ さて今回の世界的経済危機の引き金となったアメリカのいわゆる「サブプライム・ローン」だが、ローンというからには紛う事なき「借金」そのものなわけである。だが、それがかき集められいつの間にか立派な「金融商品」に化けて大々的に世界経済を席捲してしまうに至ったカラクリがここへ行くとかなり丁寧に説明されている。
 これを読んでもまだよくわからないという人がいたとしても、私はむしろその人はまともな価値観を持っている人だと思う。異常なのは『虚で虚を売買する』ような現在の経済体制総体なのである。第一次産業に従事する人がますます貧困化し、データを瞬時に移し替えるだけの人間が巨万の富を得るような経済体制がまともなものであるとは、私には到底承服し難い。これを『金融資本主義の成れの果て』と断ずるか否かは別としても、「とうとう我が貨幣経済も来るべきところ迄来てしまったなあ」という一種感慨めいたため息が出てしまうのを禁じ得ない。
 ドイツでカール・マルクスの『資本論』が再評価され、日本では小林多喜二の『蟹工船』が再読されているというのも、どこかで通底している社会現象であると思われる。

 それで面白いのは『小泉はこのサブ・プライムに代表されるような市場経済のカラクリを理解していたとは到底思われないが、竹中は全てわかった上でここへ突き進んだ張本人である』とこの筆者が厳しく竹中を断罪している点である。なるほど、竹中は怪僧ラスプーチンまがいの極悪キャラと言っていいかも知れない。

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cf.第一次世界大戦
cf.第一次大戦(since 2000).←ここはなかなか読ませる記事に充ちている。
cf.第二次世界大戦

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百年目←ここのあらすじはよく出来ている。私は故六代目円生で聞いたがこちらは上方の重鎮・三代目桂米朝の噺をテキストにしているようである。

 で、どういう噺かと言うと : ↓

 堅物で知られているある大店(おおだな)の番頭だが、実は裏でこっそり遊んでいた。芸者をあげて豪勢な舟遊び(花見)をしているところを運悪く大旦那と鉢合わせし動転して(毎日顔を合わせている主人に対し)「これはお久しゅうございます」などと珍妙な挨拶をする。
 番頭は番頭で店をしくじったかと思い、旦那は旦那で店の帳簿に何か大きな穴でも開いていはしないかと疑って、双方ともに眠られぬ夜を過ごす。
 翌日旦那に呼ばれた番頭は、帳簿を調べて疑念を払拭した大旦那に「自分の甲斐性で遊んでいるのだから何ら問題はないが・・」と一くさり説諭されるくだりが山場の聞かせどころで、二人は以前にも増して信頼を深め合うがその後で「しかし、まああんさんけったいな挨拶しよりましたなあ」と云われて、番頭の返す言葉が「ここが百年目と思いました」で下げとなる。
 登場人物も多く、よく出来た人情噺である。

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『ここで会ったが百年目』というのは講談などで使われる決まり文句。仇討ちが仇を見つけたときに発する定型句で「観念しろ」という意味である。
(「ここで会ったが百年目」の後には「盲亀の浮木、優曇華(ウドンゲ)の華」と続くらしい。「盲亀の浮木」は目の不自由な亀が海を泳いでいる内に浮いている木切れの節穴から顔を出してしまうこと。「優曇華の華」は、仏典に出て来る伝説上の花で三千年に一度しか咲かない稀有の花である。)
 番頭さんは隠れた遊びを見つかって「万事休す」と観念したというわけ。w

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2009年3月14日 (土)

知の巨人=ノーム・チョムスキー。

 ノーム・チョムスキー。「知の巨人」である。構造主義以降の言語学、心理学、哲学、政治学etc.守備範囲は広汎に亘っていて、現実の生々しい国際情勢にも積極的に発言して来た。この人もユダヤ系出身だが、イスラエルのシオニズムには批判的である。人種の坩堝・アメリカでは個々人がどの人種・どの民族出身かというフィルターがまず掛けられてそこで最初の「認知・識別」が行われる。「われ、どこのもんじゃい!?」という感じである。日本で「知の巨人」とときどきは形容されるのが立花隆で、彼も実に広汎な分野に興味を示すけれど普段見慣れているせいか(はあ?)「巨人」と呼ぶ程の圧倒的な重厚感はない。ぁそ。『千夜一夜じゃない千夜千冊』の松岡正剛はどうか。確かに本は沢山読んでいそうだけど巨人かどうかは保障の限りでない。笑。それで今回はちょちょちょっと『闘う収蔵庫(?)』=チョムスキーを集めてみました。

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チョムスキーと言えば『マニュファクチャリング・コンセント』だが(はあ?)、本は饒舌で難解でおまけに高いけど、この日本語版訳者のあとがきなら只で読めてしかも知的刺激に溢れている?ラッキーッ!ってか→ここ(2006年12月 中野真紀子)なんだけど、以下私の勝手な解釈もランダムに闖入させて紹介すると : ↓

①出版社に掲載を拒否されたといういわく付きのジョージ・オーウェル『アニマル・ファーム』の序文であるが、この中で彼は小説本体に於ける「ロシア革命の戯画化」に加えて、ソ連型「全体主義」的手法を取り入れざるを得なくなった「自由主義」の危機を訴えている。

②民主主義が高度に発達した「自由主義社会」に於て、全体主義国家にひけをとらぬような思想統制が果たして行なわれているのかどうか。
 行われているとして(検閲制度も、取り締まる法律もない自由な社会において)具体的にどのようにして思想統制が行なわれるのか。(←この書は欧米とりわけアメリカに於けるモデルの探求が眼目だから日本に直接適用することは出来ない。第一日本の『教科書検定』など検閲そのものだ)
 それを知るため自由市場におけるマスメディアの制度機構を構造的に分析する。
 本書では体制側エリートが率いる誘導市場システムである「プロパガンダ・モデル」を考案し、実際のメディアの反応にあてはめてその有効性を検証する。

③マスメディアは『マス』というくらいなもんで、寡占化の進んだ業界を支配する少数の独占的な巨大企業である。

④資本制社会の寡占的巨大企業のすることは皆同じで、マスメディアも例外ではない。それは可能的最大限に商品を生産し売りまくることである。
 マス・メディアと言えばテレビ的には何よりも『視聴率』であるが、チョムスキーはその向こうにいる膨大な数の視聴者を浮かび上がらせ、放送局が生産するのは各種『番組』であるが、商品とするのは番組ではなくそれを支える視聴者であるとする。売買されるのは『数字』ではなくあくまで『人間』なのである。

 テレビ局の場合、それぞれの購買力や消費パターンによって細かく階層分けされた視聴者(商品)を買うのは、広告主という大企業である。彼らの選択がメディア企業の業績を決定するため、その意向が番組のラインアップや内容を大きく左右する。視聴者の意見が反映されるのではない。このビジネスモデルにおいて、視聴者は番組の消費者ではあっても買い手ではなく、したがって影響力を行使する余地は広告代理店経由のスポンサーより小さく狭い。
 また日本ではNHKなどはしばしば自民党・霞ヶ関サイドの『国策報道』をする。

 日本の新聞業界では、各新聞社を支えるのは主として大企業からの広告収入であり、系列化された各販売店が読者からの購読収入に依拠していると言っていい。読売の夕刊なんて記事と広告とどっちが多いかわからないくらいで、ここでも自由市場が生み出すのは、購読者の選択が決定権を持つ中立的なシステムなどでは毛頭なく、広告主の選択がメディア企業の浮沈を決める仕組みなのである。 

⑤我々『車夫・馬丁の子』=一般大衆の役割は与えられたものをただただひたすら享受し消費することがメインである。一方金を払える者だけは『言論の自由』を謳歌し、それを遍く駆使して世論形成に多大な影響を与えることが可能だ。

⑥なにがニュースに取り上げられるか(ひいては言説を支配し世論に影響するか)を決定する装置として、公表にふさわしい素材を選別する5段階のフィルターとして: ↓

   1. メディア企業の所有と支配の構造から生じる利益志向
   2. 収入源を広告にたよることの影響
   3. 政府や大企業など、お墨付きの情報源への依存と、権力に奉仕する「専門家」の重用
   4. 集中的な攻撃キャンペーンによるメディア統制
   5. 国家宗教と化した「反共主義」

⑦ アメリカは南ヴェトナムに傀儡政権を建て、それに抵抗する現地勢力を一掃するため軍事侵略をおこない、南ヴェトナムの農村を攻撃して住民を大量に虐殺した。70年代には侵略対象をラオスやカンボディアにも拡大し、インドシナ全土を爆撃して数百万人の死者を出し、国土を荒廃させ、長期にわたる壊滅的な禍根を遺した。だが「アメリカの侵略」という基本的な事実は、アメリカのメディアの歴史認識においては、今日に至るまで存在していない。彼らの認識では、あくまでもアメリカは「南ヴェトナムを防衛」していたのであり、それに抵抗した南ヴェトナムの大多数の住民たちは「侵略する敵の勢力範囲」に囲われており、南ヴェトナム人ではなかった。

「ヴェトナムを救うためにヴェトナム人を殺す」という「倒錯した論理」はイラン・イラクにも引き継がれている。

⑧あまり暗い話ばかりでも何だから、最後に『双方向性テレビ』が状況を一変させる可能性はある。
 パッケージ化された編集済みのニュースをとどける従来型のマスメディアが(←そこではどんなに良心的な報道でもメディア総体を擁護・弁明する手段と化する。チョムスキーは「良い報道」と「悪い報道」を峻別する方策などないと言う)大衆を受動的な存在にとどめておこうとするのに対し、『パブリック・アクセス』は大衆に発言力を与えて能動化するもので、それが保障するのはマイノリティや女性など、従来型のマスメディアではおおむね客体化され、代弁されてきた人々が、みずからの声をとどける能力である。常に主流社会の支配的な価値観をとおして解釈され、描かれてきた人々が直接発言すること、異なるものの見かたや価値観を尊重し、議論を活性化させることが、『オルタナティヴ・メディア』の目指すところである。

・・とまあ、そんなことがこの訳者あとがきには書かれているようだ。(はあ?)
 M・フーコーの『言葉と物』でもそうだったけど、一般に人間の翻訳者は仕事が遅過ぎる怨みがある。訳者が時代に付いて行っていないのだからそれを読む我々は更に更に時代に遅れてしまう。スーパー自動翻訳機が待たれるってか。ぁそ。w

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cf.政府・企業とマスコミ 甘い関係~映画「チョムスキーとメディア」 2007/01/31
 YouTubeにはチョムスキーの映像が幾つもあるから興味ある人は御自分でお探しあそばせってか♪

cf.立花隆。→公式サイト

cf.松岡正剛

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